SF伝道者の四方山話 No.26 青木安輝

僕が「アプリシエート」にこだわるわけ その1

「なんでそんなに『アプリシエート』やりたいの?」って、今本当に自分に聞いてみたい質問なんです。明快に整理された回答が既にあるわけではなくて、アプリシエートにまつわる色々な想いが未だ混然とした状態で僕の中にあるだけなので、そこにツッコミを入れたいのです。まだ一回やっただけで、これから二回目を開催するところですが、以前もどこかで書いたように、このプログラムは既存の知識を学ぶようなセミナーと違い、開催する一回毎に違う参加者たちの独特な生き方の色合いや紋様が織りなす対話アートを一期一会的に味わう場です。何か特定のものを手に入れる場ではなく、参加する人それぞれが「自分」を語る題材にしてシンプルに対面のコミュニケーションを交わす体験を大切にする場です。その結果、何が残るのかは人それぞれ!

「それは面白そう!自分のことを振り返って語ったり、色々な人の話しも聞いてみたい!」と思う人もいるでしょうし、「知らない人といまさらお互いの身の上話をして意味あるの?」とか「どんな人が来るかわからないところに缶詰になるなんて嫌だな」みたいに思う人もいるでしょうね。この「アプリシエート」は、きっと合う人と合わない人がいると思います。ここまで既に読み進めているあなたは、この時点でちょっと興味を持てているのかな。それなら「合う」可能性が高いので読み進めてください。

僕のささやかな野望を言わせてください。仮に50歳以降の人を「アプリシエート」の対象とするとしたら、日本人の半数約6,000万人がその範囲に入ります。僕としてはその0.01パーセントの6,000人が深く関心を示してくれて、その20分の1の300人くらいが参加するところまでまずは到達したいんですよ。もしそれが実現すると、その頃までに「アプリシエート」独自のエートスが生まれて、さらにその先に想定以上の面白い展開があるんじゃないかと密かに期待しています。だけど、これが既存のちょっと似ている(しかし本質的に違う)ものと混同されたり、変な期待を伴う誤解をされるとなかなかそこまでも行けません。だから「アプリシエート」について僕が想うことを発信し続けて、それに響き合う人たちが来てくれたら嬉しいなと思うのです。

ある意味、僕が「アプリシエート」というゲームで遊ぶ仲間を集めるための発信という感覚で、これから何本かのブログ記事を通じて冒頭の問いへの回答を試みます。「その1」から始まって、いくつまでいくかは終わってみないとわかりませんが、とにかく始めちゃいま~す♪

あ、そぅそぅ、このブログを初めて読む方は、「アプリシエート」が何かを知らないままでは全く意味がわかりませんよね。よかったら、以下のブログ記事を参考にしてください:

★No.24 「アプリシエート誕生!」

★No.25 「アプリシエートの後で」

【その1:「ハムソー」から「ハムコー」へ】

二十台半ばの頃、瞑想の先生のワークショップ通訳(英語→日本語)をさせてもらう中で、印象に残ったお話がいくつもあるけど、そのうちの一つが「ハムソー」と「ハムコー」のお話し。「ハムソー」はサンスクリット語のマントラ(真言)で英語にすると”I am That.”

先生のお話しによると、人間は生まれる前は母親の胎内で楽に息をしながら「ハムソー」というマントラを唱えているそうだ。「ハム」は英語のI amの意味。「ソー」は「それ」の意だけど、英語にすると大文字になる。つまり人間が名前をつけるなどおこがましい大宇宙とか神レベルの存在を指す「それ!」。だから胎児は呼吸をするたびに「私は大いなる『それ!』である」という宇宙的恍惚の中に居るらしい。(胎児は肺呼吸はしないという科学的ツッコミは置いといてね・笑)

ところが人は生まれるためにとてもせまい産道を通るので、その時の苦痛で宇宙と一体化したマントラの響きを忘れてしまい、「ハムコー?」と唱えるようになってしまうとのこと。「コー」は「who」の意味なので、「私は誰 (Who am I)?」という疑問形になってしまう。だから人間は「あれっ?自分て本当は何だったんだっけ?」と自分探しを続ける存在なのだと。しかし、そんな迷子でも「ハムソー(私は大いなる『それ!』だ)」と唱えながら瞑想を続ければ、自分のもともとの本性である大宇宙のエネルギーと一体化できるという教えにつながるわけだ。

だけど、「私は大いなる宇宙だ!」という悟りを開くまでの道のりはとても長いので、ハムソーを唱えるよりも、「ハムコー(私は誰)?」に世俗的な回答を与える方が手っ取り早く自分のアイデンティティ問題が解決する(ような気がする)。だから、人間は色々頑張る。つまり「自分は~である」の「~」部分に価値あるものを嵌めようとする。できるだけ価値の高い「~」にふさわしい自分になろうと努力する営みが人間社会の様々なドラマを生む。

瞑想の先生の解説(僕なりの解釈になるが)によれば、社会的地位や名誉を得て人から認められようとしたり、正しい行いを通じて自分は善い人間であると信じようとしたり、自分の今生の役割を天職と位置づけてそれに励むこと等はどれも「私は誰?」という問いへの一つの回答を導き出すが、その達成感や満足感は永遠には続かない。なぜなら「私は大いなる『それ!』だ」という最上の真理に到達するまでは、心の中に「何かまだ足りない」という隙間が残るから。あれを手に入れた、これを手に入れた、あれを達成した、これを達成した・・・というのは素晴らしいことだが、人間という存在の真の価値を体得する旅の終着点ではない。だから、良い気持ちをしばらく味わうとまた「何かもっとありそうだ」と次の自分探しを始める。じゃあ、それは徒労なの?いやいやそうではなくて、一つの「達成」の後の「まだこれだけではないはずだ」という渇望感を大事にして、本当に自分が望むものは何なのだろうと自問し、それに回答を与え続けることによって、人間存在の究極の目的を達成する道のりで前に進むことができるということらしい。だから、やりたいことはどんどんやりなさい、手にしたいモノ、達成したいことを目指してやれることをやりなさい、そしてそれを手に入れた満足感を十分味わったら、その後で「さあ、次はどうする?」という自問を大切にしなさいという意味だったと僕は解釈している。

こういう説明をすると、成功の積み上げによってゴールに到達・・・みたいなポジティブ思考のように聴こえてしまうけど、成功や達成だけでなく、失敗や挫折も宇宙的真理に至る一つのきっかけとなるという教えもあったし、ようするに人間社会の一般的な「成功」というもの自体が人間存在のゴールではないというところがポイントだ。「じゃあ何なの?」っていうところを掘り下げてみたい人が集う場としての「アプリシエート」なのかもとも思う。誰も正しい答えはもっていない場だけど・・・だからこそ、自分が何を想い、何を話し、何に気づくのかこそが大切になる場と言える。

「アプリシエート」の一回目を終えて思うのは、「自分語り」というのは、過去の経歴や現状に関する事実を客観的に並べて「はい、これが私の人生です」と固定的にまとめてしまうこととはまったく違うということだ。語れたことよりも語れなかったことの方が圧倒的に多いし、自分はこういう人間ですと言ってみた途端に「いや、それ以外の自分もいる」という気持ちがムクムクと湧いてくる。自分語りをすることで、「私は誰?」という自問自答がさらに深まるだけなのかもしれない。でも、それが面白い!最終的な答えなんて、あと何億回か生まれ変わらないとわからないかもしれないけど、それでよしと思って、自分に関する仮説や物語をバンバン言い放つ。その中から、何か生き生きと残るものを大切にして、あとは語り捨て。本当の自分なんてものをわかるのはずっと先!だけど、もしかしたらその前触れみたいなもののかすかな響きを聴き取る、あるいは感じ取ることができたら素敵♪そんな構えで僕は第2回目に臨もうと思っている。

SF伝道者の四方山話 No.26 青木安輝” に対して4件のコメントがあります。

  1. おっくん より:

    青木先生へ

    「ハムソー」や「ハムコー」から始まって今まで足を踏み入れたことのない瞑想やマインドフルネスという分野に意識を働かせるのはとても興味深いところです。そしてそのような概念と青木さんの「アプリシエートをやりたい」という気持ちとがどのように繋がっていくのか読者の立場としても大変楽しみでもあります。

     思い返せば実践コースを藤沢さんや渡辺さんにバトンタッチされた辺りから何やら始まる予感がありましたが、コラムにはすでに二十歳の時からその起源があったことが記されているようです。若い日に心に刻まれた大切な思いなんでしょうね。

     さて、コラムを拝読した後で第一回目の写真を見返してみると、まるで親戚のうちに集まった人々のような雰囲気を感じてしまいます。ピンと張り詰めた緊張感がないというか。やはりそこにはあえて三日間という時間な設定の必要性も感じることが出来ます。

     さらに「語り合う」、「聴き合う」という行為について賛同できることは、渡辺さんのタクシーの中での会話でも実証されているように、リアルに面と向かって「語り合う」ことによって単に音声による言語情報だけではなく、その人の持つ空気(声の響きや表情、人生観や思いなど)を双方向の五感を通して感じることによってより深く理解し合えるのではないでしょうか。

     また、ハムコーに置かれた人の立場で観ると自分単独では迷いに覆い隠されて見えなかった真実が、他人のハムコーの世界と照らし合わせることによって、青木先生の仰るような増幅や断捨離の作用が生まれてくるようにも思えてきます。いずれにせよ生命と生命の響き合うハーモニーこそが深い次元でのアプリシエートを実現させる鍵かのかもしれませんね。

     と、訳のわからないことを思いつくままにワクワク愉しんで書いてみました。今後の展開に目が離せなくなってきましたよ😊

    1. 青木安輝 より:

      おっくん、コメントありがとうございます。「今後の展開に目が離せなくなってきた」と楽しみにしてくださる気持ちになったとのこととても嬉しいです!

      アプリシエートにまっとうな説明を加えようとすればするほど、色々迷います。そして、「これって結局単に僕の趣味ですって言うのが一番真実に近いんじゃねーかな」なんて思ったりもして・・・。でもね、科学的説明とか宗教的信条とか伝統とか偉い先生のお導きとか、そういう確かそうなものにバックアップされていない場に、「まあこういう人が(青木が)やってんなら行ってみてもいいか」って思ってくれる人がいるって本当にありがたいですわ。何かを取りに来るんじゃなくて、ただ自分を出してみたいっていう人が集まって自分のことを話すのを聴き合うって絶対面白い♪♪♪

      明後日は第2回アプリシエートの「プレセッション・ミーティング」です。今回はどんな雰囲気になるんだろう・・・まったく予想がつきません。だから面白いよねえ。よかったら、おっくんもいつか来てねえ。

      1. おっくん より:

         いえいえご謙遜!
         SFAも短期間で進化しているようだし、ライト兄弟やエジソンも趣味だったのかも知れませんよー。
         何事も始まり無くしてあり得ない・・・ですね(^.^)

        1. yasuteru より:

          これいつ頃始めたんだっけ~と、思い出せないくらい続くといいな~♪

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