SF伝道者の四方山話 No.23 青木安輝

毎朝神棚の前でしていること

今回は僕のブログ記事No.11「起こったことは全て最高さ!」と響き合う話になります。題材から宗教的なニュアンスを感じるかもしれませんが、お伝えしたいことは僕なりの毎日の「心の掃除」方法です。

先日渡辺照子さんが企画したSFブログ読者Café「自分の小さな努力・大きな努力を語る」の回で、自分が毎日のようにしている小さな努力を一人づつ話すという時間がありました。

渡辺さんが言うには、人によって「努力」という言葉の解釈は色々で、「私は努力なんかしない。やっていることはすべてやりたいことだ。」とおっしゃる方もいるそうです。努力という言葉は、「きつくて嫌なことでも目的達成のためにやり続ける」という意味あいで僕はとらえてしまいますが、そういう意味の努力は苦手だし長続きしないことが多いです。

だから何を話そうか迷ったのですが、「毎日心がけて継続していること」という意味あいで、毎朝神棚と仏壇の前でしていることについて話すことにしました。話す前は、小さなことと思っていたのですが、話した後に「自分は大切なことを大切にしているな」と思えて、とても気持ち良かったので、そのことについて書きたいと思います。

何をしているかというと、小さな神棚に出雲大社のお札が祀られていて、毎朝供えた水を取り替えて、二礼四拍手一礼します。毎月1日と15日には大祓(おおはらえ)の祝詞を声に出して唱えます。1日には米と塩を新しくお供えします。神棚へのご挨拶が終わると、仏壇に向かい、水を取り替えて、過去帳をめくり、お線香をあげてご先祖様に感謝の気持ちを伝えます。花やお供え物も不定期にですが、切れないようにあげています。この習慣を始めたのは、はっきり覚えていないのですが多分6~7年くらい前だと思います。毎月1日は10分くらい、15日は5~6分かかりますが、その他の日は、ほんの2~3分のことです。

母方の祖父が信仰心が強く、母を通じてその影響を受けたことは確かですが、小さな頃は親に言われたときに真似をして形式的に手を合わせていただけで、自分からそういうことをすることはありませんでした。ただ、科学では解明し尽せない人智を超えた何かに対して敬意を払わないといけないのだろうという漠然とした畏怖の念はずっとあったと思います。

この毎朝の「おつとめ」をなぜ始めたかは漠然としていて説明しようがないのですが、なぜ今続いているのかに関しては明確な理由があります。

それは、大祓の祝詞の意味です。5~6分くらいで唱える中で、よくわからない箇所もあるのですが、一番気持ちいいところが、人間は気がつかないうちに色々な罪を犯すものだが、それらの罪は「風が朝霧や夕霧をさーっと吹き飛ばすように」「もやいを解いた船がさーっと大海原に解き放たれるように」「大きなよく切れる鎌で草原の草をすべてきれいに刈ってしまうように」すべてきれいにお祓いされ得るというところです。この部分を声に出して唱えるときになんだかとても気持ちいいんですよね。そして、悪いものがさーっと払われていくイメージが湧きます。

これはまったく自分なりの解釈なんですが、罪というのは法律を犯すような実罪のことではなく、毎日の生活の中で、利己的になってしまう、人に嫉妬してその人の失敗を望んでしまう、どうでもいいやと大切なことを投げ出してしまいたくなる、家族や近しい人を助けようとしない等、人間性の尊い部分を放棄してしまうような心の動きのことだと捉えています。

で、それらは程度の差こそあれ毎日生じるわけですが、それに気づくと、そのことを理由に自分をダメなやつだと思ってしまうという自己否定的な気持ちが生まれます。これは「罪」の上塗りなので、それをウジウジ悩むよりは、追っ払って(祓って)しまった方が、自分やまわりの人を大切にする気持ちや行動が生じやすくなる・・・、というのが僕の考えです。

だから、祝詞をあげない日でも、神棚の前でかしわ手を打つ「パンッ」という音とともに、その時に考えてしまっているバカなことや酷いことにこだわったり、そんな自分を責める代わりに、それらの「罪」を一緒に流してしまうイメージングをします。そして清々しい気持ちで1日を過ごそうと決めます。これ気持ちいいんですよね。「なぜ」にこだわるのではなく、「こうしたい」という方向に自分を向かせるために、心理的負担となる余計な心のゴミを払う。

渡辺さんのCaféの中で、「こんな話をすると聴いている皆さんはどう思うのかな?」と、少し気になったんですが、とても好意的な反応(OKメッセージ)を皆さんが返してくれたし、自分も話してみてとても気持ち良かったので、毎日やっていることが今まで以上に良いこと(役に立っている)のように思えてきました。

自分のダメなところにこだわっている場合ではない。そんなもの(こだわり)はパンッパンッと祓って、やるべきことをやろう。そこに理屈はいらないってところがいいんですよね!

僕が大事にしている「起こったことは全て最高さ!」も「お祓い」も、出典は仏教だったり神道だったりしますが、(組織的な意味での)正式な信徒にならずとも自分なりに解釈&納得して大切にすることで、人生の中で自分をナビゲートする灯になってくれていると実感しています。

*記事の中に、宗教上の正式な作法などを大切にされている方々にとって不適切と感じられる表現があったかもしれません。ご容赦ください。ここに書いたことはあくまでも個人的な習慣についてですので、正式な参拝の方法や祝詞の正しい解釈等について知りたい方は、その類の資料にあたってみることをお勧めいたします。

SF伝道者の四方山話 No.23 青木安輝” に対して6件のコメントがあります。

  1. 渡辺照子 より:

    青木さん、

    人間は気がつかないうちに色々な罪を犯すものだが、それらの罪は「風が朝霧や夕霧をさーっと吹き飛ばすように」「もやいを解いた船がさーっと大海原に解き放たれるように」「大きなよく切れる鎌で草原の草をすべてきれいに刈ってしまうように」すべてきれいにお祓いされ得るというところです。

    祝詞の中の例えによって、具体的なイメージが浮かぶので、気持ちがスーっとさわやかになる感覚を覚えました。毎日、浄化されたご自身として、朝を青木さんはスタートなさっているんだなあと感じ入りました。

    1. 青木安輝 より:

      テルちゃん、コメントありがとうございます。ほんとにその部分で描写されるイメージは「祓いたまえ、清めたまえ」って気持ちになれるんですよね。卑小な自分に注目してそれを変えようとするよりも、ソレに気づいた自分はソレそれではないのだから、より本源の大いなる自分に焦点を合わせようって自分に言い聞かせています。

  2. 深山敏郎 より:

    青木さん
    久々にコメント致します。
    そうですよね。祈ることは、心の迷いを振り払い、自分の心をまっすぐにしてくれる。
    賛成です。
    いつも気持ちがよくなるコラムですね。

    1. 青木安輝 より:

      深山さん、コメントありがとうございます。理解や納得は客観情報に由来しますけど、祈りは主観的な自発行為なので、理屈抜きのパワーが込められますよね。

  3. おっくん より:

    青木さんへ

     拝読しているだけでも清々しい気持ちになってくるのがわかります。

     パワースポットという言葉が流行り出してから久しいですが、癒しや運気を高めるために何か神聖な場所や対象物を求めるのは理解できます。ただ「どこが一番効果がある」とそこにいくことが正しいことであるかのように宣伝するのは疑わしくもあります。癒しや運気も自分の内面に起こる状態であるならば日常の何処にいても良いのかなと。逆な言い方をすると”日常を離れて生きる道はない”と言い切ってしまいたいくらいです。

     青木さんの行われているように毎日、ご自宅でご先祖様と対面しながら日常的にご自分を振り返っておられる時間と行為はとても崇高なものだと思います。忙しい日々の時間の中にたとえ一瞬でもそのような時間を過ごされていることに心の余裕さえ感じています。きっと神棚や仏壇に映し出される”青木安輝さん”は日々新しく蘇生していくようですね。

    1. 青木安輝 より:

      おっくん、コメントありがとうございます。「清々しい」気持ちになってもらえたのはとても嬉しいです。自分が居るところをパワースポットにできたらいいよね。SF的なコミュニケーションが交わされる場で、とても快い感覚を共有できている時なんかは、そこがパワースポットになっているんでしょうね。おっくんもきっと職場でパワースポットを増やし続けていることと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA