快く生きる日々 No.11 渡辺照子

距離感を保った末にやってきたもの

ハンガリー・ブダペストでスリに遭ってしまった。それはソリューションフォーカスのカンファレンスに参加した際(2011年6月)の旅の途上でのこと。スーパーマーケットで買い物をして、確かにバッグに納めたはずの財布が、ホテルに着いたときには、なくなっていた。財布をバッグに入れてから一歩も立ち止まっていない。むしろ小雨が降ってきたので、小走りにホテルに戻っている最中にすられてしまったというわけ。日本から参加の6人くらいと行動を共にしていて、クレジットカードの抹消手続きやホテルの鍵の再取得など、皆が手伝ってくれて、あの時は、心の底から仲間の存在に感謝した。

その助けてくれた仲間の中に、当時スイスに住んでいて、私たちに合流して、カンファレンス中、通訳をしてくれた青年がいた。彼は、翌朝朝食の際に会うなり、ユーロの札束の入った封筒を私に渡し、「これを帰りの旅で必要なだけ使ってください。残りは、震災で被災した人々に寄付してください。」と。当時の日本円にして15万円ほどの金額。このようなことを考え、施してくれる青年に私は心底感じ入り、後に彼が始めた、マイノリティ女性・子ども支援の活動の一環に協力させてもらうことにし、インドの女の子の里親を8年ほど現在まで続けている。その青年は、今では結婚されお子さんも生まれタイに住んでいる。それで、時々帰国して、支援の様子や里子さんの様子をレポートしてくれるのだ。今年も7月末のとある日、彼と彼のお嬢さんにお会いした。「距離感」の話は、私と彼のお嬢さん(ここからは、Mちゃんと呼ぶことにする)との間でのことである。

駅ビルの中にあるCAFÉで、話をすることにした。その場所は、オープンなスペースで子ども連れが安心して楽しめるようなショップ展開をしていた。一角に壁があって、その壁が大きな黒板になっていて、多色のチョークが準備され、子どもなら誰でも自由に絵が描けるようになっていた。

Mちゃんには3年ほど前にも会ったことがある。小学校1年の年齢(飛び級して今2年生だそうだ)なので、幼児の面影はなくなっていた。Mちゃんは私のことを、おぼろげに覚えている程度らしい。それで、彼女とどうやって今日付き合おうかと、私は心の中で想いを巡らす。

距離をとること、とくに子どもと距離を取ることを私は大事にしている。たぶんそれは、教員をした時の経験からきている。当時の私、「私はあなた方の味方だよ、年齢も先生方の中で一番あなた達に近いよ。何でも言ってきて。」っていうノリで、生徒さんたちに接したら、多くの生徒さんに拒絶され、教員という仕事を辞めたいと思うくらい上手くいかなくなって、教育活動が暗礁に乗り上げた経験がある。だからこそ、最初から安易に子どもと近い距離を保つことはしない。

Mちゃんにも同様。自分から積極的に近づいてはいかない。でも、無関心ではなく、かなり気にしながらも距離を取る。Mちゃんから何か発信してきたら、タイミングよく対応する。

 ・何を描いて欲しいかリクエストして欲しそうなので、一個ずつリクエストを重ねる。

 ・驚かせたいから描くところをみせたくなさそうなので、パパさんと話して、描くとこ

  ろを見ないふり。(遠巻きにこっそり観察はしている。)

 ・一生懸命お絵描きし終えて、席に戻ってきたので、スイーツを勧め、一緒にカウンタ

ーまで行って注文してきた。

 ・パパさんに、あることでたしなめられ気まずくなっている様子なので、トイレに誘っ

  てみた。(パパさんと少し離れることで、冷却時間になるだろうと考えて。)

 ・テーブルのところでも、リードはせず、彼女が何を望んでいるのか気にして会話した

  り、反応したりした。

さて、私はコーチングのコーチを職業にしているのだが、コーチングを学んだ時の教科書に以下のようなことが書いてあった。

  コミュニケーションには原則がある。その中の一つが、「適切な距離を保つ」こと。コミュニケーションを交わすためには、相手との距離感が重要で、遠すぎても近すぎても円滑にはならない。適度な距離感があってはじめて、コミュニケーションそのものが可能になる。この距離感は、日々の観察や実践によって磨かれていくものである。相手を観察し、相手が許容する範囲で近づく。自分の緊張の度合いも測りながら、コミュニケーションをとっていく。この感覚が働かないと、距離をとりすぎたり、逆に近づきすぎたりして、いずれも心を開いたコミュニケーションを生み出すことができない。

あらためて読んでみると、まさにこのことを、私はMちゃんとの間でやっていたようだ。1時間半くらい経っただろうか。いよいよお別れの時が近づいてきた、パパさんとMちゃんは、私を改札まで送ってくれるという。パパさんが先に歩き、私はMちゃんと横に並んで歩いて改札に向かっていた。そうしたら、Mちゃんの方から、私の手を握ってきてくれた。小さな手を、私の手の中に割り込ませてくるような感じで。あたたかくて、柔らかくて、私はもうとても嬉しくなった。続いて、彼女から言葉をかけてきてくれた。彼女は英語も話すけれど日本語も話す。相手によって使い分けているようで、私には日本語で話しかけてきてくれた。「ねえ、本当は名前なんていうの?」私は答えた。「てるてる、テルコだよ。」 彼女は、にっこり笑って、「てるちゃん!」と呼んでくれたのだ。もう私はとろけてしまいそうになった。愛おしさが増して、お別れするのが寂しくなるほど。ここからもっと彼女と一緒の時間を過ごしたいという気持ちがむくむく湧いてくるのが自分で分かった。でもその思いは、次に会える瞬間まで取っておく。彼女のおばあちゃんが久しぶりに帰国してきている孫のために、夕食を作って待っていてくれるのだもの。今度会った時はまた、一からの積み上げかもしれないが、それでもいいや。

目に見えないけれど、人と人は距離を調節しながらコミュニケーションを取っている。自分から相手へ取る距離、相手が自分に対して取る距離。目に見えないことだからこそ難しい。でも、ああ面白いなって、あの日のことを思い返しながら今思っている。

快く生きる日々 No.11 渡辺照子” に対して9件のコメントがあります。

  1. 豊村博明 より:

    渡辺さん
    大変ご沙汰しております。豊村です。
    今回の渡辺さんの記事を拝読し、今の私にとっても、たいへん示唆に富んだ内容ものをご提供頂き、感慨深い気持ちになりました。

    距離感って大切ですよね。元はと言うと他人同士の夫婦の距離感。親子であっても子供との距離感。いくら親しい友であったとしても、その友との距離感。そして、時には客観的に自分と向き合うことの出来る距離感(私はこれが出来ませんが。)

    物理的な距離はあっても、いつも心理的には身近に感じられる人もいるし、その逆もいる。
    また、心理的に近くにいてても、相手が喪失感に打ちひしがれているような場合、心理的にもあえて距離を取って、そっとしておいてくれる友もいますよね。

    今回のMちゃんは渡辺さんの心遣いが伝わって、二人の距離感がM ちゃんにとって、正に何とも言えない心地良い時間を醸し出したんですね。実際に言葉で表現するコミュニケーションも大切だけれども、相手の事を思いやる気持ちというものは、言葉に表さなくてもその表情やしぐさ、テレパシーみたいなもので伝わるものなんですね。Mちゃんもきっともう少し渡辺さんと同じ時間を過ごしたかったのではないかなあと想像してしまいました。

    これを書いていて、すっごい昔の渡辺さんからお聞きしたお話を思い出しました。
    何か何十年も会っていない渡辺さんの親友夫妻が今度、渡辺宅に遊びに来ることになって、その日のために、夕食のごちそうをたくさん買い込んで大宴会のあと、渡辺宅にも泊まって頂いて本当に楽しい時間を過ごすことが出来たとその時すごく嬉しそうにお話されていました。
    最初、その話をお聞きした時、「何十年ぶりの友人がいきなりホテルじゃなくて、渡辺宅に泊まるなんてすごいな。泊まる方も受ける方もさぞかし気を遣うだろうし」と思いましたが、
    お互いの距離感がそんな些細なことどうでも良かったんですね。(笑)

  2. 渡辺照子 より:

    豊村さん、こんにちは。コメントを早速にありがとうございました。
    豊村さんにとって「示唆に富んだ内容」だったとおききでき、とても嬉しいです。

    単に相手に対する距離だけでなく、「時には客観的に自分と向き合うことの出来る距離感」の大事にお気づきの豊村さん・「心理的にもあえて距離を取って、そっとしておいてくれる友」の存在をご存じの豊村さんは、さすがだなあ~、素敵だなぁと感じ入っております。

    Mちゃんに何が届いたかを記してくださった
    豊村さんの文章は、受け止めてもらえた~って思えて、私の心を代筆してくださったかのようで、喜びとありがたさで涙が浮かびます。

    そして、ずっと前にお話させていただいたことを覚えていていただいて、
    驚きましたし、とても嬉しいです。

    もしかしたら、
    豊村さんがおっしゃる、「お互いの距離感、そんな些細なことどうでも良」いって
    思える境地こそが、多くの人のフューチャーパーフェクトなのかもしれないなどと、
    ちらと思えました。
    豊村さんのコメントによって発想はまた膨らみます。
    とてもありがたいです。

                         渡辺照子

  3. 柴田篤 より:

    渡辺 照子 さま

    今回もたくさん学ばせていただきました。ありがとうございます。広島から、感謝申し上げます。

     ヤードという、長さの単位がありますよね。1ヤードは0.9144mにあたり、ゴルフやアメリカンフットボールで、耳にすることがあります。昔、王様が、自分の鼻先から手の親指までの長さを1ヤードとした、という説もあるようです。

     いろんな手が、やって来ました。スリの冷たい手、札束の入った封筒を渡してくれた青年の熱い手、手の届かないインドにいる女の子に手を差し伸べる、里親さんの優しい手。先生を拒絶する、生徒たちの厳しい手、黒板に向かってチョークを握る小さい手、そしてその手は「私の手」の中に、あたたかく、やわらかく割り込んで来て。

     新型コロナ感染が拡大しないよう、ソーシャルディスタンスや、アクリル板や、マスクや、オンラインなど、周りの人と距離をとる決まり事が、日常に割り込んできました。そのおかげで、人との距離について、コロナ以前のように悩むことが少なくなったのではないでしょうか。近づきすぎて互いに傷つけないか、離れすぎて関係が冷え切ってしまわないか。適度な距離を保持するための気苦労は、感染防止という御旗の下で、幾分緩和されたように思います。

     これからコロナが終息しても、距離をとるという世の中の秩序は、しきたりのようにして残るような気がします。だって、楽だから。「適切な距離を保つ」には、Mちゃんにしてあげたように、手間をかけ、回り道をしなければならないわけで。でも、その回り道を避けていると、私たちの大事なリソースである距離感が衰え、そのうち大切に思っている人との人間関係で、手を焼くことになるのではないか。

     ソーシャルディスタンスなどの決め事に、依存するわけにはいきません。引かれた線の上でなければダメというのは、昔の王様はともあれ、私たちにふさわしい考え方と言えるでしょうか。目の前の人との間合いを、手探りしながら手作りで、紡いで行くしかなさそうです。お互いにそれが絶妙な距離感だと思う瞬間があれば、幸せというもので。

     孫悟空のように最短距離を全速力で飛んでも、あるいは回り道しながらあれこれ試し、上手く行かないことに耐えながら歩いても、結局はお釈迦様の大きな手の中。

     スリの一味は手ぐすね引いて、狙ったその日本人をよく見ていました。一人が何か相手の注意を引くようなことをし、相手がそちらに気を取られた瞬間に、別の一人がバッグから財布を抜き取る。あの人たちは、距離感のプロ。生活が懸かっているし、警察に捕まるわけにはいきません。手がかりは、残さないでしょう。

     そういえば、距離感の達人、その姿が目に浮かんできます。ヤードという距離感を錬磨し、ゴルフクラブを手に、コースに立つその雄姿が…ね。

    1. 渡辺照子 より:

      柴田さん、コメントをどうもありがとうございました。
      今回も、柴田さんのコメントを堪能させていただきました。

      距離に始まり ⇒ 鼻から手の長さ ⇒ 色んな手 ⇒ ソーシャルディスタンス ⇒ 手探り・手作り・手間・手を焼く ⇒ ディスタンス ⇒ 上手く ⇒ お釈迦様の大きな手 ⇒スリの手ぐすね・手がかり残さず ⇒ そして最後は、東京八王子辺りにお住いの距離の達人で締めくくられていました。 

      こうして柴田さんの文章を読み進めてみて、浮かび上がってきたことがあります。

      生きるとは、手間をかけること。手間をかければ、何かが得られるというか、何かがやってくるのだなということです。

      母と先日農作業をしました。私はどうすれば効率よくやれるか、なるべく手間を削るには
      どうしたらいいかと作業をします。母は違います。時間がかかる、労力がかかるやり方で
      作業しています。母のしているそれが、手間をかける事であり、作物や自然にまっすぐ向き合っている姿なのだとわかりました。

      柴田さん、今回も学ばせていただきました。
      どうもありがとうございます。

      1. やっちゃん より:

        八王子辺りの距離感の達人⁉︎・・・会ってみたい(笑)
        Mちゃんがすっと小さな手をすべり込ませてくるところは、胸キュンとなりますね〜♬ホント素敵な瞬間です💕
        この場合、近づくための距離感合わせを上手にした結果ですけど、僕は巻き込まれないための距離感合わせの方が得意かも。ホントはもっと相手の懐に飛び込んでおけばよかったかもと思うことがよくあります。距離感をうまく保ったつもりが孤独感になることもありますね。
        でも一番大事にしてるのは自分との距離感かな。これがうまく保てていれば他は全部なんとかなると考えています。

      2. 柴田 篤 より:

        渡辺さま

         コアな部分を掘り出していただき、ありがとうございます。こめんと冥利に尽きます。

         米は88の手間とか。田にせよ、畑にせよ、作物に向き合う姿勢の尊さ。改めて、頭を下げるばかりです。

         冥加なことに、八王子の達人にまで、こめんと頂きまして。ゴルファーはバンカーとかに捉まることはあっても、警察の手に落ちることはないので、安心して鍛錬なされますよう、お祈りしております。

          柴田 頓首
         

  4. おっくん より:

    てるちゃんへ

     まずは「おめでとうございます」と申し上げます。だって貴方は至高のご褒美を味わうことが出来たんですもの。

     小学1〜2、3年生の手(皮膚)は、とても柔らかくて気持ちいいんです。しかも自分の意思を持ちながらも誰かを頼らないと生きていけない年齢。だから自分にとって本当に必要な人だけを見つける本能のような眼を持っているような気がします。そう、天然のプラスの眼鏡。

     今ふうに言うと「認証」となるけれど相手は人間だから、「安らぎ」とか「信頼」と言うのかもしれません。
     そんな子供からふと手を握られたり、ちょこんと膝の上に腰掛けられたりしたら、それはもう可愛くてかわいくてたまらないですよね。「ああ、私のことをわかってくれているんだ」と。

     教員時代に味わったというあの切ない経験も年数を経た今、Mちゃんの柔らかな手によってむくわれたようですね。しかし、それよりも私には「私はあなた方の味方だよ・・・」という気持ちがあの頃のままに照ちゃんの中に生き続けていることがとても嬉しく思います。だってそれが僕の大好きな照ちゃんだから。

     (Mちゃんへ感謝を込めて)

    1. 渡辺照子 より:

      おっくん、コメントをどうもありがとうございます。

      おっくんはいま、子どもさんたちの近くにいるから、子どもさんたちのことを
      よくわかっているんだなって、拝読していて思いました。

      「ああ、私のことをわかってくれているんだ」・・・と、私が
      おっくんの文章から思わせていただきました。認証を頂いた感覚です。
      と言いますのも、教員時代に生徒さんたちに必死で向き合っていた時のことを
      肯定してもらえた、受け止めてもらえた、そのことに意を留めてくださったからです。
      Mちゃんに感謝までしてくださいまして。

      私にはおっくんの存在がありがたいです。
      感謝の思いを込めて、ペンを置きます。
      おっくん、どうもありがとうございます。
      今日からまた快く生きていきます。
      周りの人々と快さを共有しながら生きていきます。

  5. 深山敏郎 より:

    うーん、なるほど。

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