快く生きる日々 No.2 渡辺照子
『高さ6センチをどう教えるか』
今から1か月前のとある土曜日、我が家の法要での出来事。住職さんは別の場所で約束があるらしく、息子さんでイケメンの副住職が我が家の法要にご対応くださった。
ここはお寺の本堂。横幅14~15メートル、奥行き6メートルほど。畳敷きの広い空間のその上にカーペットが敷かれ、和室用のベンチが置かれ、私ども家族と招待者の皆さんはここに座っている。(膝が楽で助かる。)
仏像が立ち並ぶ荘厳なエリアは、横幅14~15メートルの長い辺の中央部から、突き出るようにして、ぐっと奥まったところにあり、高さも1メートルほど高い位置。仏像数体と、彫刻を施した装飾と花などが飾られている。
和尚さんは、私たちが座っている座敷空間と、この仏像エリアの狭間でお経を唱える。幅14~15メートル、奥行き約1メートル、高さ6センチの中央付近で、目前の1メートル程高い位置においでの仏像様方に向かって正座して、お経を唱えている。
つまり、私たちの居るところと、和尚さんがお座りのところには、高さ6センチの段差が生じていた。問題はこの「高さ6センチ」。
夫がこの4月単身赴任で発つとき、「お母さんを助けていろいろ頼むな。」と言い残していった所為か、今日の長男はいつになく積極的にその場に臨んでくれていた。「お母さん、みんなのお焼香が済んだ時、いつもなら、お父さんが和尚さんに、『お焼香終わりました。』って言うよね。あの役を俺がやるよ。」と息子。❝なんと頼もしくありがたいこと❞と嬉しくなった。なぜ、和尚さんに知らせる必要があるかというと、和尚さんは私たちに背中を向けて、お経を唱えているので、私たちの様子が見えない。だから、唱えてくださっているお経を収束に向けていただくために、お焼香が済んだことを知らせる必要があるのだ。
いよいよその時が来た。息子がとった行動は、私たちと和尚さんとの間に存在していた段差6センチを昇り、和尚さんの真横に回り込んで正座し、和尚さんの耳に向かって、お焼香が終わったことを告げたのだ。息子がそうしたのには理由があったと思う。和尚さんはお経を唱えているので後ろから声をかけても聞こえにくいから、よく聞こえるようにと、段差を昇り、真横に回って伝えたのだと思う。道理な行動だ。
しかし、その様子を見た瞬間、私は❝まずい❞と思った。和尚さんがおいでのところはいわば聖域だ。そこに昇ってしまうのは礼を欠く行動だ。たとえ、聞こえにくくとも、息子は座敷に留まって、背中を向ける和尚さんに向かって、お焼香の完了を告げるべきだったと、そう思った。
心がざわついた。しかし、息子にこのことを、「注意」という形で伝えるべきでないとわかっている。というのも、これまでに何度となく、親の私の思い通りでない事柄を、上から目線で注意して、息子の心が離れてしまうという経験を重ねてきたから。
高さ6センチをどう教えたらいいのだろう・・・。
結局お寺を後にしても、このことをずっと考えていた。自分はどのような形で、「高さ6センチ」を学んできただろうか。厳しい上下関係のある中学から高校の部活動や、20代の初めの5年間ほど、習っていた茶道で。茶道には、様々な作法が存在し、畳のヘリは踏んではいけない。畳のヘリをまたぐ時は、右足から。常に空間と周りの人との間を読んで立ち居振る舞うことを求められた。・・・これらのところで学んできたのかなあ・・・。
世の先輩という立場においでの皆さ~ん、皆さんが後輩に伝えたいことは、うまく伝えることができ、後輩たちはそれらを受け取って、活かしていらっしゃいますか? 自分が伝えたと思っても、相手が受け取っていなければ仕方ないですよね。マニュアルなどがあれば、より伝わりやすいかもしれないけれど、私たちが次世代に伝えたいことは、目に見えないもの、形のないものであることもしばしばです。いったいどうすればいいのでしょうか。
さて、法要は午前中で終わったが、午後3時過ぎまで、突き詰めるような感じで、息子に高さ6センチを読むことをどう教えるか考え続けていた。一人で考えていても答えが出ないので、妹に電話をして「これこれ、しかじか。 あなたならどうやって高さ6センチを子供に教えるの?」って訊いてみた。そしたら、「え~!そんなこと気にするの? 私も同じ場にいたわけだけど、何も違和感感じず見ていたよ。そんなの別にいいんじゃない。」❝こだわり過ぎ❞くらいな妹の口調だった。そういう妹も、自分の子どもに対しては、伝えたいことをストレートに言うか調節するかで、今までさんざん逡巡してきたようだった。
妹と、20分間くらい話す中で、私の頭は段々と整理され、ひらめきがやってきた。余談だが、妹の存在は、本当にありがたい。いつも対等なスタンスで会話に応じてくれるので、私も伸び伸び語り、話しているうちに何らかのことに気づく機会を日ごろから与えてもらっている。
で、何をひらめいたかというと、❝あの時はこうするべきだったよ❞と注意をするように言うのではなく、息子を今後も家の行事などを共に進めていく頼りにする存在と位置づけ、今日の法事の予算や引き出物の選択、お寺とのやり取りをどうしたかなど、今後のために覚えておいて欲しいよとお願いし、そして最後におまけな感じで、今日のお寺でしてくれたことだけどね、あなたはこういう風にやってくれた。ありがたかったよ。でも、あそこは和尚さんの聖域だから踏み込まないほうがいい。次回からはこういう風にするともっといいと思うという風に伝える。・・・我ながらいい案だと思った。彼をぺしゃんこにしないで、伝えたいことが伝わりそうな伝え方。
どう伝えるかは決まったものの、タイミングが難しい。夕方5時ころ。今息子はちょうどそばに居る。今言う? えっ、今じゃなくて後でもいいんじゃない。どうなるか不安なので、直面するのを避けようとする自分。いや、ダメ。このタイミングを逃してはいけない。エイ、やあ! さっき考えた通りに伝えてみたら、息子は、普通に「うん、うん」と聞いてくれ、すんなり、「わかった。」とボソッと言った。息子なりに受け取ってくれた感触があった。拍子抜け。や~、よかった。伝えることができた。気分はすっきり。
あれから1か月経った。「様々な高さ6センチ」がやってきたとき、それをどう読み、どう対処するかまだ教え切れてはいない。けれど、一度にすべて教えられなくても、思いを以て関わり続けていれば、折に触れて伝わるように伝える機会がやってくる気がする。それと、あれもできていない、これも教えなきゃと、きりきりするのではなく、人生で学ぶべきことは、息子はもう自分で学んでいくから、すべてを彼に任せよう!そんな風に思うことも大事だなと思えて、今は私の心は落ち着いている。
読ませる文章で興味深く拝読しました。
参考になればと思いお書きします。私はお茶の先生に注意されたことはほぼないのですが、ではどうやって指導されているかというと、先生が見聞き体験した悪い例をお話しくださることで学んでいるなと思います。うんうんと聞きながら「え~そうなの!知らなかった」と心の中で驚くことしばしば。
そして先生はたぶん、私たちの誤りに気づきながらも、意欲を損なわないために、大勢に影響ないことは注意されずに我慢なされていると思われます。茶道は決まり事が多い世界なので、注意しようとすればいくらでもできます。しかし私の先生は、生徒さんが細く長くとにかく「続ける」ことにフォーカスされているように思います。それより大事なことなく、みな些細なことになるのでしょう。
また他からうるさくいろいろ言われることもきっとあるのでしょうが、そういった批判に受け流すスキル、干されない実力をお持ちだなあと思います。
精神的な器の大きさと実力あればこそ、穏やかで慕われる師が実在できるのだなあと本記事にご返信しながら改めて思いました。
深い内容の記事をありがとうございました
牧さん、とてもためになるコメントを早々にどうもありがとうございました。
牧さん、茶道をなさっておいでなのですね。
それで、牧さんの先生は、「精神的な器の大きさと実力」を備えておいでなのですね。
牧さんの先生は、悪い例をお話しくださることで、教えている。
「悪い例」を聞かせてもらう場面を思い浮かべると、悪さ・まずさの矛先は、
その場にいる人には当てられず、そこにいる皆が学ぶべき事柄に向かって、客観的に居ながら安心して学びを得られるように感じます。それから、教える側がしっかりと目的をもっていれば、注意することと、しなくても良いことの区別がはっきりするし、指導のしかた(対象とのかかわり方)を揶揄されても、それを払いのけられるということですね。こういうところに指導者の懐の広さを感じ、その指導者のもとでは、伸び伸びと安心して学びを得ることができるイメージがわきました。4月から新入社員の娘は、指導者や周りの人にどう思われるかを毎日気にしています。牧さんのコメントを拝読し、指導者がいかに学べる環境を創れるか、そこがみそだとも思いました。
お寺の本堂を想像しながら、どうなるかしら?とドキドキしながら読み進めました。
日常の中での伝え方、私も息子がいるので、自分だったらどうだろう?とも考えながら読ませていただきました。
結果・・・良かった~♪ほっと胸をなでおろしました。
「様々な高さ6センチ」はこれからもきっとやってきますね。
私にもきっとあります。
折に触れ、「あ~~、きたきた高さ6センチ!」と思い出す気がします。
そんなエピソードからの学びをありがとうございました!
岩本さん、コメントを頂戴しどうもありがとうございました。「ほっと胸をなでおろしました。」のくだりから、岩本さんが文章を思いを伴わせて読んでくださったことが伝わってきて嬉しくありがたく思いました。
岩本さん、「あ~~、きたきた高さ6センチ!」をキャッチフレーズに使ってくださる宣言も嬉しいです。
勝手な想像ですが、岩本さんは、息子さんへの接し方を既に岩本さんなりを心得て、快くやり取りされているように思いました。
「うんうん、わかる~」と独り言を言いながら、拝読させていただきました。
特に、「何をどう伝えるか?」の先の、「いつ伝えるか?」の場面。
その時の気持ちの動きに激しく共感でした。
というのも、私も、結婚前の娘とのやり取りの中で、正しく同じようなことを体験中だからです!
言ってみるとすんなり受け入れてもらえたり、そうでなかったり。
そうでない場合には、自分のべきを振りかざしたくなる自分もいて、色んな自分が登場します(笑)
青木さんが言っておられた、いろんな自分を、どこで出し、どこでひっこめるか?
そんなことを思い出しながら、今日も健やかに暮らしていきたいと思いました。
”快く生きる日々”というタイトルも素敵で、好きです。
エピソードをシェアしてくださって、ありがとうございました。
笠木さん、コメントを頂戴し、どうもありがとうございました。
共感的にお読みくださったのですね。
ご結婚前のお嬢様に、親だからこそお嬢様の幸せを願って、
伝えたいことがいろいろおありだろうなと推察します。
伝えて受け入れられたりそうでなかったりというところを見ると、
コミュニケーションを日ごろから取っていらっしゃるのだとわかります。
「自分のべきを振りかざしたくなる自分もいて」と客観的観察もしておいでですね。
❝べきを振りかざしたくなる❞・・・わかるわかると共感いたします。(笑)
❝どこで出し、どこで引っ込めるか❞とする姿は、❝自分の感情で一方的に❞とは全く別の
姿勢がありますね。相手のことを思ってどうするかを考えること自体が、
相手に伝わるためのベースかもしれないなと思いました。
渡辺さんへ
今はなき母を思い出しました。
子供想いの優しい母。
昔むかし、私が一人で用事にいくときに
「○○のときは、こうするんやで!」と
わかっていることをよく口にする。
「わかってるわ~」と煙たがる私。
でも、内心では確認の意味で参考になる。
私の母も、「高さ6センチ」だったのだろうか?
昭和のど田舎で四人の息子を食べさせるだけで
精一杯な母がそんな思考回路を持ち合わせていたようには
見えなかった。
しかし、いま渡辺さんの親心に触れたとき、私の母の中にも
高さ6センチがあることに気づかされた。
それはあまりにもずけずけしたものであり、
決して体裁のよいものではないかもしれないけれど。
今更ながら、親のありがたさに感謝です。
私も年を重ねたせいか、周りでふれあう若い人たちを応援したくなる日々です。
谷奥さん、おはようございます。コメントを頂戴しこの度もありがとうございます。
お母さまは、子ども思いの優しいお母さんでいらしたのですね。
谷奥少年は煙たがりながらも、ちゃんとお母さんのお気持ちと言葉を受け止めて
いらっしゃったのですね。・・・ということは、たとえ目の前の相手の反応が自分にとって思わしいものでなかったとしても、一喜一憂する必要はないのだなと思えました。
実際のところ、❝相手が自分をどう思うか❞は気になってしまいますが、それを気にしすぎることで、意識や思いや相手との関係が違うところに行ってしまうんだとわかりました。
親のありがたみ、私も感じて生きていきます。
そして、周りの若い人たちの応援、私もしていきます。これからの時間はそれをする時間のようにも思えているところです。
照ちゃんへ
こんな私の何気ないコメントから
母子の風景の一コマをふかーく
読み取っていただきました。
そんな受け取り方もあるのだと。
おかげさまで、この短い文章が
ダイヤモンドの輝きを得たようにも
感じます。
照ちゃんには教えられること
ばかりですね。
ありがとうございます😊
谷奥さん、私のコメントに、素敵な意味づけをしていただき、
どうもありがとうございます。
谷奥さんのプラスの眼鏡の感度は、ものすごいといつも感じています。
それは、毎回、ライターにコメントをくださったる、そのご姿勢と
コメント内容からそう思います。
私こそ、谷奥さんから多くを学ばせていただいております。
Facebook拝見しています。新しい環境での頑張り素敵ですね。
応援の思いを赤城山の麓よりおくっております。
フレー・フレー!
た・に・お・く・さん!
いつも届いてますよ。
だから「頑張ろう」と思えるんですね。
渡辺さん
お久しぶりです。
お母さんの息子さんに対する愛情をひしひしと感じました。
先日、会社のエルダー研修発表の中で、あるエルダーが、「後輩に自分が信じているやり方を指導してきたつもりだが、自分の常識が相手の常識とは限らないことに気が付いた。なので、今後、相手の軸足に自分を一旦置いて、考えてみる習慣をつけていきたい。」みたいなコメントがあり、とても感動しました。
私は、6㎝高い場所が「誰にも踏み込むことのできない聖域」ということは知らなかったのですが、きっと和尚さんは、お経を読みながら息子さんの”相手を思いやるその優しい心遣い」に目を細めておられたのではないかと・・・・・
和尚さん、息子さんにウィンクしてませんでした?(笑)
いつも、自分の都合の良いように解釈する豊村でした。
豊村さん
ご無沙汰です。
私にも和尚のウインク、見えましたよ!
きっと息子さんにも見えてるはず。
社会のルールは大切ですが、
ルールよりハートって時もありますよね。
息子さんのお父さんの名代としての行動は
大切な成長の心意気ですよね。
なんでもない行動のように見えるけど
心の中は、どのタイミングとか、
和尚になんて伝えようかとか、
親族を代表して恥ずかしくないかとか
色々考えてるはずですよね。
僕の場合がそうだから。
越えられない親父に近づく喜びかな。
谷奥さんにも、豊村さんにも、和尚さんのウインクが見えているんですね!
和尚さんがウインクしている映像を思い浮かべると、あの場は実際とは全く違う場として、思い返すことができます。
希望や軽やかさや嬉しさが漂うお寺の本堂に塗り替わります。
おっ君、「心の中は、どのタイミングとか、和尚になんて伝えようかとか、
親族を代表して恥ずかしくないかとか、色々考えてるはずですよね。」
・・・息子の心の中を想像すらしていなかった自分に気づきます。
豊村さんがコメント内で「自分の常識が相手の常識とは限らないことに気が付いた。なので、今後、相手の軸足に自分を一旦置いて、考えてみる習慣をつけていきたい。」というエルダーさんのお心意気を記してくださっていますが、
おっ君は、息子の立場に立って想像され、その想像を心に留め置いて行動なさるような先輩であられますね。
見習います!
豊村さん、お久しぶりでございます。コメントをどうもありがとうございます。
エルダー研修での感動をシェアしていただき、どうもありがとうございます。
そのエルダーさん、気づきを新たに得て、さらに素敵なエルダーさんになられていきますね。豊村さんの感動は、きっと、エルダーさんのお話の内容だけにとどまらず、そのエルダーさんが今後巻き起こしていきそうな未来が予想され、そこにも感動なさったのではないかと思いました。
豊村さんのコメントを拝読しながら最後の方に差し掛かった時、ハラハラと涙がこぼれました。息子のことをあたたかな眼差しで観ていただいていることに、親として感謝の思いで胸がいっぱいになりました。同時に、私に最高のOKメッセージを頂戴したと感じました。ありがたいです。
自分の都合の良いように解釈する=上質なプラスの眼鏡力 ☺☺☺