快く生きる日々 No.14 渡辺照子
「ビン・カン」「その他のごみ」から思ったこと
社会人になった私は、中学校で国語の教員だった。一生働き続けることを考えていた私は、転職して視覚障がい者図書館(点字図書館)の職員になった。なぜ、働き続ける為に教員をやめたかというとそれは、或る日の放課後にあったことが関係している。
その日は、何やら問題が起こり、17時近くまで生徒指導のために、多くの生徒と教員が残って話し合いをしていた。教員の中で女性は、私とH先生のみ。H先生にはお子さんがいて、保育園に預けている。「私は子どもの迎えがあるから、これで帰ります。」とH先生が言ったところ、生徒が何と言ったと思いますか?ある男子生徒が、「先生は俺たちより、自分の子どもがかわいいんだな。」と言ったのだ。その言葉を聞いたとき、もし私がH先生だったら、「自分の子ども」と「生徒」との板挟みには耐えられないなと、今思うと熱すぎる・重すぎるくらいの情熱をもって教員の仕事をしていた私は思った。生徒は大事。でも、預けている子どもを迎えに行かないわけにはいかない。生徒の言葉を浴びたH先生の苦しそうな表情を今でも忘れることはできない。・・・というわけで私は結婚の機会に点字図書館に転職した。
点字図書館というところが当時(今から35年程前)何をしていたかというと、ボランティアの人たちのお力を借りて、点字の本と、カセットテープに、音声を録音した録音図書を作成し、視覚障がい者に貸し出すという業務をやっていた。職員になってみて驚いたことは、ボランティアの皆さんのご尽力は本当に莫大・膨大だということ。例えば、視覚障がい者に誤った情報を伝えてはいけないと、本の中に出てくる地名など、あちこち当たって正確に調べて朗読する。点字に至っては、点字器に点字用紙を挟み、点筆で点字器の溝に、一点一点、点筆の先の金属を押し込んで凹面を作ることで、ひっくり返すと用紙に膨らみができる。そのふくらみ(凸面)を視覚障がい者の方々は、指で触って読んでいく。とてつもない作業量。
私自身の業務の一つに、ボランティアの方が打ってくださった点字の本の原稿を校正するというのがあった。原本と打たれている点字に誤差がないか、点字を目で読んで確かめていく。もし、誤字を発見したら、リストアップし、ボランティアの方に直していただく。その業務を担当するために、私は点字を学んだ。なので、私は点字を目で読むことができる。
当時は、日常生活で点字を見る機会はあまりなかったが、現在ではあらゆるところに点字が書かれているのを見かける。例えば、缶ビールや缶チューハイのプルタブのそばには、たいてい「おさけ」と書いてある。さすがに年数が経ってくると、読む力が劣ってきてしまうのだが、それでも日常で、点字を発見すると、読めるかな?とその都度自分の読む力を確かめている。
先日、電車の車内でのことだ。デッキに設置されているゴミ箱に、ゴミを捨てようとしたら、そこに点字を発見。ごみ箱には、二つの直系15センチくらいの穴が、20センチほどの間隔であいていて、それぞれの穴のふちに表示がしてある。一つの穴には、「ビン・カン」と書いてあり、もう一つの穴には、「その他のごみ」と書いてあった。これらの印刷された文字の上に、透明な点字シールがかぶせるように張られていた。読んでみた。そうしたら、なんと印刷された文字と同様、片方には、「びん・かん」とあり、もう一方には、「そのたのごみ」と書いてある。
はたと思う。
視覚に障がいがある方にとって、片方の穴に、「びん・かん」と書いてあるからといって、20センチほども離れているもう片方の穴のところに、「そのたのごみ」と書いてあった場合、使い勝手はどうなのかな?
点字を表示するのは、視覚に障がいのある方のためであるのに、これでは、見えている人のための点字表記になってしまっているのではないか。とオーバーに言うと心の中に正義感みたいな気持ちがむくむくと湧いてきた。ひとりよがりではなく、相手にとってそれがどうであるのかを考えて行動しなければいけない。そうしてはじめて快い日常が実現するのではないか。政治や社会も、市民にとってどうか人々にとってどうかと考えて事に当たる必要があり、そうでなければ、政治や社会の存在意義がなくなってしまう・・・ってな感じで、その時の私は鼻息が荒くなっていたと思う。
実際どうなのかなと思って、幾日か経ってから、視覚に障がいのある友人に電話してきいてみた。彼女は快く回答してくれた。第一声は、「へー、そんなの貼ってあったんだー。」さらにきくと、「その他って何のごみをすてればいいのかわかんないね。」「墨字と点字を同じにするというルールがあるからそれにのっとったんだろうね。」「盲学校のごみ入れは、びん・かん・ふねん・かねんと表示していたよ。」「『その他のごみ』では、見えている方にとっても、わかりにくいこともあるのではないか。全員がわかりやすいといいね。」と。
*墨字(すみじ)・・・点字に対して、通常の書いたり印刷したりした文字のこと。
彼女は最後にこう言った。「トイレに、『だい』『しょう』『ながす』と書いてあるのは、すごく助かるよ。安心してボタンを押せる。非常ボタンを押してしまったりしたら大変だからね。」「あなたが今日のようなことを思ってくれたことが嬉しい。」とまで。私の荒かった鼻息は、ほわ~とあたたかな気体に変わった。彼女が、いわば感謝の思いを以て世の中を見ているその姿勢に触れたことで。
あらためて、今回のことで思うのは、「何のためにそれをするのか」目的への意識が薄れると、特にその目的に対象がいる場合は、それをすることの意味が薄れるか、なくなってしまう。人は、自分が中心なところがあるので、相手がどうかと考えることが常にできるわけではない。コーチとしてコーチングセッションの最後のところで、よく尋ねることに、「今日の気づきは何ですか?」という問いに対して、「上司はどのような気持ちだと思いますか?とコーチにきかれて、ハッとした。上司も現状が大変なのだから、自分の不満だけをぶつけるのは違っていると感じた。」などと話されることが少なくない。「思い遣る」「思いを馳せる」「(相手に)思いを巡らす」、これらのことが人々の中で行われていくことで、相手の快さ・自分の快さを引き寄せることができるのだと再確認した。相手はどうなのか、透明な目で見つめ、オープンな心を以て考えていく姿勢が要る。自分だけではわからないときには、相手に聞いてみることさえ要る。
さてさて、私は友人の「全員がわかりやすければよいね」という言葉にハッとした。❝これでは相手のことが思われていない!❞と息巻いていた私の捉え方には偏りがあった。「相手にとってどうか」という視点のほかに、「すべての人にとってどうか」という観点、そして、「本当の自分はどうか」ということも思えるようでありたい。彼女を見習って生きていきたい。
渡辺さんへ
ここ一週間、カフェの宿題である”今年の漢字”を考えていました。
楽、幸、変化、挑・・・色々迷いましたが、最後は「客」と決めました。
極端ですが、子供たちを含めたお客様という立場の人との関わりの中に幸せを感じることができた一年であったと思えるのです。ですから渡辺さんのブログをすご〜くしっくり読ませていただくことが出来ました。ありがとうございます。
これ以上書くとネタバラシしてしまいそうなのでこの辺で失礼します😁
明日のカフェと来年もよろしくです♪
おっくん、コメントをどうもありがとうございました。
そして、Caféへのご参加をどうもありがとうございました。
おっくんに会えてうれしいとおっしゃっていたご参加者が
いらっしゃいましたね。私もその一人です。
ブレイクアウトルームでご一緒できなかったのが
残念でしたが、次回の機会をねらいます。
「客」なるほど。
子どもさんたちを「客」と
捉えたおっ君は、子供たちにホストとして、ホスピタリティーを
発揮した関わりをなさっていたということですね。
まさに、ソリューショニストっていう感じがします。
今年も押し迫りました。
来年も、おっくんよろしくお願いいたします。
渡辺さま
雪の結晶のようなお話し、ありがとうございます。
毎度のコメントで、失礼します。
「銀河鉄道の父」という映画が、来年のゴールデンウイークに公開されるそうです。宮沢賢治とその家族を描いたお話し。楽しみです。映画の公式サイトで、原作者の門井慶喜さんは「この世には、親子の数だけ銀河がある。」とコメントしていらっしゃいます。これをなぞって言えば、この世には先生と生徒の数だけ銀河があり、ゴミ箱と視覚障がい者の数だけ銀河があり、上司と部下の数だけ銀河があるのでしょう。
先般ある会社の管理職を相手に、コンプライアンス研修をやりました。テーマは「自分ごと」。単に法律などのルールを守りなさい、と言うと、そのルールが自分や部下にとってどのような意味があるのか、そもそもどのような目的で決められたのかが抜け落ちてしまいます。これはとてもマズイこと。なぜなら、ルールを守ってるんだったら、あとはどうやってもいいよねと言う風に、思考が停止してしまうから。ルールって誰かが決めた「決まり事」だから、自分はそれに従えばいいんだという次元で、自動運転モードになってしまいます。
よその会社やよその部署で起きた事故や不正なども、自分たちには関わりないし、とスルーしてしまうのも、困ったことです。確かに誰もが「タイパ」を重視するくらいに忙しいし、よそのことから学習して、自分たちはどうすべきか考える、なんていうゆとりはないでしょう。「他人事」としてさばかないと、前に進めないような気がして。
こういった背景から、毎日、毎月、毎年、各地の企業や団体で、事故や不祥事(品質不正や会計不正など)が繰り返し起きてしまいます。で、少しは決まり事や他人事について、考えてみようという研修でした。題して「対岸の火事で他山の石を拾う」。職場での板挟みの状況で、当事者ならどう行動するかを、参加者に話し合ってもらいました。具体的な内容は、省略しますけど。
「雨ニモマケズ…」という賢治の作品。読み始めると主語がないので、そういう人がいるのかと思ってしまいますが、最後の部分で「サウイフモノニワタシハナリタイ」とあり、今の自分はそんなじゃないけど、そうありたいんだ、という気持ちが伝わります。「全員がわかりやすければいいよね」というのも、実現させるのは大変なことでしょう。けれども、目指す星をコトバにすることで、一歩ずつ近づきます。点字が生まれ、バリアフリーやユニバーサルデザインが、社会に浸透してきたように。
銀河の果てまで、飛んで行けそうだな。
柴田さん、コメントをどうもありがとうございました。
文章全体に、徹頭徹尾私の文章を受け取ってくれている様子が伝わり、
なおかつ、柴田さんの見解や捉えも、伝わってくるので、
学びが深まります。柴田さんの文章は、
柴田さんの懐の深さや広さがほとばしり出ている感じがします。
とてもありがたい気持ちです。
最後の、「銀河の果てまで、飛んで行けそうだな。」の一文で、
頭を上げて、また未来に向き合っていけそうな気持ちになり、
勇気をもらいました。どうもありがとうございます。
「銀河鉄道の父」、私も観てみたい気がします。
この夏、遠野を訪ねた際、JR釜石線に乗りました。
この映画を観ることで、「新たな銀河」を獲得できる気がします。
素敵な情報をどうもありがとうございます。
今回も、ものごとの目的を深く考えるきっかけになりました。また、お二人のコメントも勉強になりました。有り難うございました。
深山さん、コメントをどうもありがとうございました。
考えるきっかけになったとは嬉しいです。
SFブログCaféでお会いでき嬉しかったです。
ご参加どうもありがとうございました。
背景のシェイクスピアの肖像と
深山さんがかぶって見えていました。
2023年になさることが明確で、
深山さんの意欲がすっきりと伝わってきて、
かっこいいなあって思いました。
探求するもテーマをお持ちのお姿が素敵だと思っております。
深山さんのご活躍を応援いたしております。
一番驚いたのは、渡辺さんが展示を読めることです!本当にすごい。
そして、印象に残ったのは、「フィードバックの大切さ」です。
それも、実際に利用する人の立場に立ったフィードバック、というより、実際に利用する人から聞いたフィードバックです。
障がい者の権利条約に関わる研修で聞いた合言葉、「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」を思い出します。
これは、自分が現在の勤務校で行っている支援についての面談でも生かすようにしていてます。”本人参加型”の関係者が集まっての面談。
メンバーが集まってチームとしての関係性作りのほか、具体的な状況確認、本人や関係者にフィットした具体的な支援方略を作ることで、各自のモチベーションも高まります。(個々の面談で生じる認識のずれ等から生じる、感情的な対立など余計なストレス事象を回避することもできます。)
もちろん、この面談を進めていくうえでも、OSとしてSFがとても役立っています。
面談の進め方が適切かどうか、面談自体を振り返るフィードバックも必要ですね。どういう風に位置づけるか、考えていきたいと思います。
身近な出来事から大切なことを切って教えてくれる記事に感謝します。ありがとうございました。
展示→点字 変換ミスでした。(すみません)
小野さん、コメントをどうもありがとうございます。
「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」
ずしんとくる言葉です。
実際に小野さんは、勤務校で、支援についての面談で、”本人参加型”の関係者が集まっての面談をなさっておいでなのですね。
以前に、学校に行けなくなってきているお子さんを持つ親御さんからお話を聞いた際に、せっかく息子が学校に父親の車で行ったのに、教頭先生が無理に車から降ろして、校舎内に連れて行こうとしたら、その日から全く行けなくなってしまった。
と話していたのを思い出します。その教頭先生のことを私は存じ上げているのですが、おそらく、“よく来たな。さあ、中へ。おいでおいで。入って入って。”という前のめりな気持ちが行動になったのではと推測しています。(良かれと思ってなさった行動)
上記のようなことも、支援をする人達が本人も交えてどのようにできるか、
もし本人がどうしてもそこへの参加が難しければ、本人の存在やご意向を
できる限り想像したうえで、関係者が如何に支援できるのか、話し合いながら
支援を進めていけるってのがいいんだろうな~って、あらためて思います。
本人や本人の存在抜きではよろしくないってことですよね。
「面談を進めていくうえでも、OSとしてSFがとても役立っています」
上記の「OS」という言葉が心に響きます。
私にとって、SFは,快く生きるためのOSであるといえるなあと思いました。
SFAを学ぶ方々が、マークマカーゴウさんを講師に、
リフレクティングチームを、カウンセリングのスーパービジョンの機会に
活用している様子を、ネット上で拝読したことがあります。
面談のフィードバックを見いだす一つの形として、
リフレクティングチームを活用できるのではと思いました。
渡辺照子