SF伝道者の四方山話 N0.17 青木安輝

「寄り添う」ってこと

僕は歌うのが好きだ。小さい頃、木挽きの仕事をしていた祖父はお祝いごとの宴の場で即興で歌をつくって皆を楽しませることができたという話を母から聞いた時、「オレにもその血が流れているかも♪」とワクワクする感覚が湧いたものだ。

しかし、小学校の音楽の授業中に自信が崩壊する出来事が起こった。隣の友達に即興のメロディーを小さな声で口ずさんだら、そいつが「先生、青木クンが今歌をつくりました!」といきなり叫んでしまった。で、先生に怒られるかなと思ったら、「それなら歌ってみなさい。伴奏をつけるから」と、アコーディオンを構えてくれた。誇らしい気持ちもあったんだけど、恥ずかしさとちゃんと歌えるかどうかの不安の方が勝り(もともと心配症な僕)、少し調子っぱずれになってしまった。先生はそれを何とかちゃんとメロディーになるようにアコーディオンで弾いてくれたけど、暗い顔で一言だけつぶやいた「青木クン、もうちょっと音程良かったらなぁ・・・」。

つまり、オンチな青木クンが怪しげな音程で口ずさんだメロディーのようなものをちゃんと弾くのに苦労した・・・という風に僕の耳には響いた。「オレはオンチなんだ⁉」という気持ちがこの瞬間深く心に刻まれてしまった。もう即興で何か口ずさむなんて冒険はすまいと悲しい気持ちで思ったし、歌う機会があると「音程がはずれるかも・・・」という恐れがつきまとうようになってしまった。

さて、時は流れて50代半ばになった頃、人生経験も色々重ねて、歌が好きな気持ちは相変わらずあり、音程に関しては自信のなさよりも図々しさの方が勝るようになって、カラオケスナック等で知らない人の前でも「旅の恥はかき捨て」くらいの気持ちで歌えるようになってきた。で、単なる御愛想かもしれない拍手をもらえると、自分もまんざらではないとさえ思うようになった。

ソリューションフォーカスの仕事が増えてきたその時期は、ストレスが溜まることも多く、地元八王子のカラオケ個室がある「R」というBARで思い切り歌うのが、お気に入りの発散方法になっていた。ママのひとみちゃんがお互い同年代、しかもビートルズ大好き同士とわかり、個室を利用する時はついてくれることが多かった。サービス精神が旺盛な人で、どんな曲でも手拍手をしてくれるのはいいんだけど、ロックなのにドドンパ調で何だか調子が狂うことが多かったから、この曲は手拍子がない方がいいとリクエストすることもあった。気持ちよくしてくれる接客態度はありがたいと思っていたけど、音楽の才能に関しては「この人にはなさそうだ・・・」と心の中で決めつけていた。

ある時、70年代の洋楽話で盛り上がり、CSN&Yの”Teach Your Children”をハモれたらいいねということになり、チャレンジした。案の定、ひとみちゃんはハズしてくれる。「あぁあ、それじゃワケがわかんなくなるう」「あぁ、コミックシンガーのようだぁ」と、内心思いつつ、なんとか“おつきあい”で歌っていた。

彼女は僕がとても喜んだと勘違いしたらしく、行く度にその歌をやろうと言ってくるので、ある意味仕方なく“おつきあい”していた。その内、やっぱり調子っぱずれになるのに我慢ならなくなってきて、向こうがハズれるところではこちらが余計に大きな声にしたりして「何とかちゃんと音程とってよ!」みたいな気持ちになっていった。しかし、そうすると、残念なことに余計にハズれるようだった。

ところが、ある日ふと思った。あれ、これって「青木クン、もうちょっと音程良かったらなぁ」とつぶやいたあの先生と同じじゃん(汗)。あの時の自分の悲しい気持ちを思い出した。心の中で馬鹿にしたり批判する代わりに何か違うことできないかな・・・。

そこで、ひとみちゃんがハズしたと感じたところでは、”ハズれ”を際立たせようとする代わりにむしろ一緒にハズれる方向に若干合わせようとしてみた・・・。そこで何が起こったか!?

なんと、ひとみちゃんの音程が合ってきたのだった♪そして、めっちゃ気持ちいい!!

またハズれてきたなと思ったら、また同じように自分も少しそっちに合わせてみると、やはり伴奏に合った正しい音程に戻ってくる!!不思議だけど、本当の話し。最初は単なる偶然かと思ったけど、何回も繰り返して効果があることを確信できた。「ひとみちゃんに音楽の才能はない(正しい音程で歌うことができない)」という勝手な決めつけは間違っていたことがわかって嬉しかった♪

そして思った。「寄り添う」って、こういうことなんだ♪♬

その瞬間、小さい頃に「青木クンの音程が・・・」と言われて傷ついた心が癒されたような気がした。あえて、一緒に間違うことで、逆にちゃんと正しい道に戻る・・・そんなことってあるんだろうか!?音楽に詳しい人だと、ここに書いたことは僕の思い過ごしだと思うか、あるいは「それは〇〇現象だ」と説明がつけられるかもしれない。でも、僕が大切にしたいのは、その現象にどのような客観的名称がついているかではなくて、「寄り添おう」って思った時に起こる共鳴効果は、多分色々な人間関係の様々な場面で起こっているのだろうっていう洞察だ。

最近ある企業向けに制作した動画によるSFリモート研修の成果レポートを読ませてもらっているが、その対象となっているチームリーダーたちの成果の中には、まさにこの「寄り添い」現象が報告されている。今までは、ダメなところを指摘して、間違いを自覚させるとか、正しいやり方を強制的に教え込もうとして効果がないことが多かったけど、部下が間違いを犯したその仕事に一緒に入ってみると、実はその部下がお客さんに気を遣っているがゆえにとった行動がリーダーには間違いと映っていただけだったなんてことがあるらしい。それが理解できると、その部分は尊重してあげて、どうすれば、その気の遣いようと正しいサービスの内容を両立させられるかを一緒に考えるようにした。すると短期間で部下が大いなる変貌をとげた!そんな報告がいくつも寄せられている。目頭が熱くなるね。

人間を導くには、「寄り添い」って必要なんだ♪

ちなみにひとみちゃんには僕があえてハズれる方向に合わせようとしたなんて話は一切していない。一緒にハーモニー(らしきモノ)をただ楽しんでいる(^o^)

SF伝道者の四方山話 N0.17 青木安輝” に対して6件のコメントがあります。

  1. 青木安輝 より:

    このブログ記事をカミさんに読んでもらいました。その感想がショックでもあり、面白くもあり、学びにもなったのでシェアしたいと思います。

    彼女はこう言いました:

    「それってさ、ひとみさんがあなたの音程がズレたのに気付いて、ちゃんと正しい音程にさせてあげようと反射的に思った結果起こったことなんじゃない?」

    わお!!

    自分の文章を読み返してみると、自分がヒーロー的な扱いになっていて、ひとみさんが何を思っていたかは想像すらされていないことに気づいた。意識的意図的だったかどうかは別にして、確かにひとみさんは僕をサポートするということだけに意識を向けていたかもしれない・・・と考えると、この話はさらに深まるなあと思いました(汗)。

  2. おっくん より:

    青木さんへ

     寄り添っていたはずが、実は寄り添われていたという、るいこさんの下りに座布団一枚! 目からウロコですね。なんだか自分の周りにもそんな勘違い?がありそうな気がしてきます。

     僕の職場で言うと”おもてなし”を最近では”ホスピタリティ”と格上げして言うことがあります。お客様対自分であったり、子供対自分の場合は、明確にその立場上、寄り添われ役と寄り添い役に分かれでいます。かと言って「その逆が全く無い」と言い切れないことに気がつきました。

     ようするに寄り添い役の時は相手の言葉や行動、さらには心の機微まで気を澄ませているのに、寄り添われ役になると途端に無防備になってしまうようです。面白いですね。
     唯一、寄り添われ役が心地良く意識して心を解放してしまうのは、SF的に認められたような感覚を覚えた時なのかもしれません。

     さて、”Teach Your Children”という曲を初めて聴きました。カントリー調の軽やかなハーモニーが心地良く、たしかにハモってみたくなるのがわかります。
     上記(分析不足ですが)の主旨から見ると、寄り添い役と寄り添われ役の共存する例のカラオケ個室の中の2人には一体どんな反応が起こっていたのでしょう。単に音の共鳴のお話しだけではなかったようですね。

     青木さん、今回も未知の世界へご案内いただきありがとうございました。しかし奥が深いですね〜。

    1. 青木安輝 より:

      おっくん、コメントありがとうございます。今回何もコメントがつかなかったので、あれ、オレ、なんかはずしたかな・・・と、ちと心配になっていたのですが、コメントニストの興味深いコメントをいただけてホッとしました。これも「寄り添い」かな(笑)。

      カミさんが言ったことも一つの仮説であって本当のことはわからないのですけど、コミュニケーションの結果良いことがあった時に(悪いことがあった時も同じかな?)、片方の側だけの記述を「起こったことの事実」としてとらえてしまいがちですけど、相手にどう思ったかを聞いてみるとずいぶん違うことを思っていることに愕然とすることはありますね。ひとみちゃんに聞いたら多分「えーっ、何も考えてなかったというか、ずっと楽しくきもちよく歌えてるなあとしか思ってなかったけど」と言われそうな気がするので、そのままにしておこうと思います。

      「相手を変えようとする(お前は今のままではダメだというメッセージ)」→「相手を理解しようとする、近づこうとする」という変化は、確実に相手にも自分の方に近づいてもらえるチャンスを増やすと思う。これが今回一番言いたいことでした。

      1. おっくん より:

         青木さんの仰りたい事はスッキリと入ってきていますし、上司の立場の人がそのように振る舞う事は大きな変化を産む可能性があると信じています。

         ただ今は、自分の発した「寄り添う人と寄り添われる人」がうまく昇華されずにくすぼっているんですね😅 るい子さんの言葉が妙に「未だ言葉に出来ない真実」を表してるような。
        面白いのでもう少しひねくってみますね。何かしら見えそうな時は、またお付き合い願います😊

        1. 青木安輝 より:

          まったく関係ないかもしれないけど、思い出したことがあるので書きますね。以前障害者支援施設の仕事をしている人に聞いて思ったことです。

          入所者に噛みつかれたりとかまったくいうことをきいてもらえなかったりとか大変な仕事なのに給料は安いというイメージがあるという話になった時に、確かにそういうこともあるけど、普通では味わえない喜びもあるというので、それはどんなこと?と聞いたら、入所者が嬉しい時は、身体全体を寄せてきてそれはもう本当に嬉しそうにぴったり離れなくてそのぬくもりと何ともいえない純粋に「嬉しい」100%になりきっている感覚を共有してもらうのは、他所では味わえないことだと言ってました。世話をしている側が他では体験できないものを”貰ってもいるんだ”なあと感銘を受けたことを覚えています。

          1. おっくん より:

             ああ、この感覚は全く一緒です!!
            兄貴、なんでわかるんですか。
            求めてる答えになんだかとっても近ーい気がする。

             寄り添ってるんだけど、一方通行じゃない。
            1mmの小さなちいさなステップなんだけど
            「そのうち、いつかは」の希望は捨てない。
            ああこんな心豊かな世界に巡り合えたことに感謝。

             ほら、外は春の陽ざしがいっぱいです・・・兄貴に感謝

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